私が幼い頃に遊んだ多賀城市周辺の釣り水辺の様子を書き記してみたいと思います。
だいたい、1970年代、昭和45〜55年頃の薄れゆく記憶を思い出してみたいと思います。
1970年代、釣り少年にとっての多賀城市
釣り好きの少年にとって、多賀城という環境は、当時どうだったのか考えてみます。
多賀城市民の子供にとっての海釣り
多賀城市には海はありません。砂押川の河口付近を海と呼ぶなら、ほんの少しだけ海に面した部分があるのかもしれません。(貞山堀くらい)
なので、多賀城の子供達の海釣りといえば、隣接する仙台新港や、七ヶ浜町の各漁港、塩釜港でのハゼやネウ釣りという事になります。
小学校高学年になり、自転車での活動範囲が広がると共に、仙台新港や七ヶ浜町に行き出すというのが多賀城の釣り少年の通る道でした。
前記のように多賀城には、ほとんど海がありませんので、家が漁業を営んでいる家庭はありません。
多賀城の子供にとって海は近いようで遠いのです。七ヶ浜町や奥松島の子供と比べたら、海が身近ではないのです。
なので、自転車で海釣りに行くというのは、ちょっとした遠出感があって釣れなくてもとても楽しかったものです。
釣れなくても楽しかったというのは嘘で、たいてい何かが釣れました。現在はどうなのでしょうね。
この1970年代にはまだ、ソフトルアーによる、ソルトライトゲームなんてものは存在せず、少年たちはみな「青イソメ」です。
↑塩釜港 昔はネウが良く釣れた
多賀城市の子供の川釣り
砂押川
仙石線周辺の子供達にとっては川釣りと言えば『砂押川』です。
私は砂押川でチャレンジすることを学びました。
海釣りと違って、砂押川での釣りは上手い下手に差がでる釣りでした。
釣りも上手い友達には釣れて、自分は釣れないということがよくありました。
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砂押川での当時の釣りの対象魚は
- マブナ
- モロコ
- ナマズ
- ハゼ
- ボラ
- オオガイ
- セイゴ
海でのチョイ投げ釣りとは違って、ウキを使っての釣りはまた別の楽しさがありました。
小学校低学年の頃、幼なじみの友達と、国道45号線よりずっと下流の汽水域に練り餌を持って釣りに行き全然釣りにならずにケンカして帰ってきたことを思い出しました。(涙目)
そう、砂押川の下流域は昔は川辺は雑草が生えた自然のままの状態でカニなどもたくさんいました。
老人、子供問わず、ずいぶんと釣り人がいました。学区でいうと天真小学校の子供達のエリアです。
現在は、コンクリートで護岸されてしまって水面との距離がずいぶんとあり、川岸に柵まであります。実に残念な景色です。
これでは、川の水を岸際の生物たちの分解能力で浄化していく力が著しく下がってしまいます。
しかし、1970年代、けっこう水害が多かったというのも事実です。
多賀城中学校のグラウンドでは大雨が降った後、ボートを浮かべることができました。
そうは言っても、現在の砂押川下流の景色は残念でなりません。
↑現在の「砂押川」下流
勿来川
勿来川は砂押川上流で二股に分かれている片方の川なのですが、しばらくの間、どちらが砂押川でどちらが勿来川なのか分かっていませんでした。
勿来川は初めて1人で釣りに行って魚を釣った川です。釣果はモロコ1尾だけでしたが。
しかし、あの感動は忘れられません。独力で何かを成し遂げるという事を学んだのは、このモロコ釣りだったかもしれません。(大袈裟か!)
そして、時は流れて90年代初頭、あの勿来川でブラックバスが釣れる時がくるとは思いませんでした。
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しかし、2015年に勿来川を覗いてみましたが、なんだか魚のいる気配のない川になっていました。(冬だったからかな)
↑現在の「勿来川」
多賀城周辺の池や沼
加瀬沼
加瀬沼は1970年代、1980年代初めまではヘラと雷魚の釣り場でした。
雷魚マン達は、沼のいくつかの入江に第一ワンドとか第二ワンドとか名付けていました。
雷魚釣り場の加瀬沼も多分に漏れず1990年代にはバス釣り場へと変貌を遂げていました。
加瀬沼に夜明け近くに行ってみると、朝靄が立ち込めていて、なんとも幻想的な風景だった事を覚えています。
七浦堤
七浦堤は、多賀城市ではなく七ヶ浜町の沼なのですが、ここにも雷魚がいました。
ヘラ釣り場としてもいい沼でした。
沼なのか池なのか分かりませんが、現在も釣りが出来るのでしょうか。
↑2017年1月1日の七浦堤。水面に氷が残る中、ヘラブナ釣りをしている人も。
阿川沼
阿川沼では、中学校の時に水門の水路で鮒釣りを一度だけやった記憶があります。
その時は、 釣れずに、すぐに七浦堤に移動した記憶があります。
多賀城に住む子供達には、なぜか大きな阿川沼より七浦堤のほうがポピュラーだったのです。
その後平成になり、阿川沼もブラックバス釣り場に生まれ変わりました。
東日本大震災の時にはここも津波に飲み込まれたのだと思いますが、現在は魚たちは生息しているのでしょうか?
正月に、写真を撮りましたが釣り人はいませんでした。(2019年1月1日)
↑七ヶ浜町 阿川沼
消えてしまった多賀城市の水辺
さんかく沼
多賀城市の伝上山2丁目あたりに1970年くらいまで、さんかく沼という沼がありました。
ここも、みんなが自由に釣りの出来るところでした。普通の住宅地の中に、柵もなく釣り禁止でもない沼が普通にあったのです。
さんかく沼では、ごはん粒でもフナが釣れました。
現在なら、誰も入れないように柵が張り巡らされ、釣り禁止になってしまうのでしょうね。
昭和50〜52年頃、さんかく沼は埋められて、そこには栗の木が植えられました。
しばらくの間そこは栗畑だったのですが、その後は住宅地になっているようです。
野田の玉川
野田の玉川は現在も存在しますが、今は、コンクリートで作られた偽の川です。魚は居ません。
平安中期の歌人が詠んだ歌枕ですが、私の思い出の中ではただのドブ川でした。小さい頃に父親と、金魚のエサにするために、イトミミズを取りによく行きました。
野田の玉川も砂押川に合流するすこし手前あたりの流れにはフナが生息していたようです。
留ヶ谷の堀
留ヶ谷には昔、東北電力のグラウンドがあってその周りを囲むように堀があって、若干水が溜まって居ました。
その堀に沈んでいる古タイヤを取り出してみると、中にはアメリカザリガニが沢山入っていました。
グラウンドも掘もザリガニも今は存在しません。
中央3丁目あたり、生協の向かい側あたりにも小川があって、アメリカザリガニ釣りをして遊びました。
この辺りでの定番のエサはチクワです。
その小川も今はありません。
底なし沼
高崎廃寺近くの急な坂を下りていくと、そこには通称「底なし沼」がありました。
ここでも私はなかなかフナを釣り上げる事が出来ませんでした。
クラスの釣り名人は、この底なし沼で沢山フナを釣って、理科の時間の解剖に必要なフナを用意してくれました。
私は全く釣れませんでした。
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この「底なし沼」も現在は過去の面影はなく、金網に囲まれた小ちゃなため池が残っているだけです。
↑現在の「底なし沼」と思われるため池
国道45号線沿いにも小川があった
砂押川方面から国道45号線の脇には小川というか堀りというかドブというか、とにかく水が流れていました。
確か、今でいうと、『ダイシャリン』のあたりまで水がの溜まった掘りが続いていたと記憶しています。
小学校低学年の私は、車が好きで、わざわざ国道沿いを通って下校していたのですが、その時に見てしまったのです。
国道沿いのドブ川で小鮒が口をパクパクさせていたのを!
総合体育館の向かい側あたりですよ。今こんな事を言っても信じてもらえないでしょうね。
今は歩道になっている所です。
なぜ国道沿いのドブ川でフナちゃんがパクパクしていたのか、今にして考えられる事は、おそらく砂押川に生息するマブナが乗っ込んで来て、そこで産卵していたのだと思います。
そして、45号線脇の堀でマブナの子供が育っていたのです。その小ブナが、砂押川へ出て行ったかは難しいですが。
↑この歩道の辺りに小鮒が泳いでいたんですよ。伝上山の道路脇の側溝にはドジョウもいました。
まとめ
40年近い時の流れで多賀城市の自然を残したままの水辺はほぼ消失しています。
砂押川中流あたりはまだ、見た目が自然ですが、もっと上流の新幹線車両基地あたりまで行ってみると、逆に上流のほうが人口河川になっていて、悲しくさせられます。
今の多賀城市も子供達にも、ザリガニ釣りやハゼ釣りを市内で楽しんでほしいものです。